イラッとする相手

数ヶ月前、イラッとする人が目の前に現れた。
・・・というより私が立ち寄ったところに、その人がいたのだが。
 

私自身だった・・・

何かされたのでも言われたのでもないが、その人の所作にイラッとしたのだ。
で、何でイラッとしたのかを考えてみたら…。
 

さとう心の中 「ぁ、この人、私に似てるんだ…」
 

所作といったが、何かをするのに動作がバタついているというか、「何かしなくちゃ。」という焦った行動が鼻についた。
焦って行動するのに、ちっとも事が運ばない。
落ち着きがないその行動を見ていると、こっちが不安になる。
 

私に似ているから、その人の行動に隠れた心の動きがよく分かる。

「ちゃんとやらないといけないけど、何をどうしたらいいのか分からない。」

そして、相手に何かを悟られないように、言葉や態度はしっかりしているように見えるけれど、内心はそうではない。
確かに焦っているというのが、私には丸わかりだ(自分のことだからよく分かるのか?)。
 

解決策を考えた

私の目の前に私がいる…。
なんとも複雑であるが、その人の行動から自分が見えたのだから、じゃあ、どうすれば解決できる?と、考えた。
 

観察していると、まず、目の前に見えていることにだけ反応していて、手順がバラバラなために、周囲が求めていることに応えられていなかった。

ぁあ、これって身に覚えがあるよ。
この人に対してイラッとするってことは、まだまだ私も、この人の域なんだなぁ。
 

では、どうしたらそれを改善できるかと考えて、はじめは動作が遅くても、一つ一つ順番に確実に物事をなしていけば良い、という答えにたどり着いた。

答えが出たなら、実践しなければ自分の行動も直らないし、また、自分と同じような人を見て、イラッとすることになるだろう。
 

こんな風に、自分の前に現れた「イラッとする」人物や物事は、自分の中にある問題を見せてくれているというのは、『ただ見る』をしているうちに気付けるようになった。
(せっかく気付いても、その先自分が行動しないと、解決はしない。)
 

神の窓口

そう考えると、目の前に現れたその人は、私にとっての神様の使いだ。

算命学には、神の窓口論というものがあって、あらゆるものは、大切なことを見せてくれる『神の窓口である』という考え方だ。(さる命学教室のカリキュラムでは、1コマ目の最初の方に学ぶ)
『神』とは自然の法則のことだが、窓口は目に見える見えないに関わらず、いたるところにあって、人間に何かを気付かせてくれる。
 

つまり、その人の行動は、私自身に何かを気付かせようとしてくれた、『神の窓口』だったということでもある。
 

『神』に感謝なのである。
  

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