少し前に、ある映画を見て、恥と怒りについて考えさせられた時があります。
それまで私は、逆上している状態って、怒りから発せられているのだと思っていました。
しかし、その映画を見てから、逆上は、概ね怒りではなく恥が原因だったのだと理解し、逆上している人を見ると、「この人、恥ずかしいんじゃないかな」という視点で見るようになったのでした。
『愛を読むひと』
ドイツが舞台の映画ですが、前段・中段・後段で、ガラッと内容が変わっていきます。
前段
ある15才の少年が、あるきっかけから21才年上の女性と肉体関係を持つようになり、彼女にはまり込む。
そのうち、関係を持つ前に、毎回本の朗読を求められるようになる。
彼女は普段は優しいのだけど、時々イライラしたりヒステリックに怒り出したりすることがあり、ある日突然いなくなる。
少年はひどく傷つく。

ここまで見たとき、私はその女性が時折見せる、理不尽な怒りっぽさが気になり、それはどこからくるんだろう?と疑問に思います。
中段
青年になった少年は、弁護士を目指して法律を学んでいる。
ある日、授業の一環で法廷を見学に行って、被告席にその女性を見つけ、驚く。
その裁判は、アウシュビッツの大量殺人の責任を問うもので、看守の仕事をしていた6名の女性が裁判にかけられていて、女性はそのうちの一人。
かつて少年だった男性はその後も裁判を見に行き、成り行きを見守る。
結局、ある書類を書いたという理由で、その女性一人に責任がかぶせられ、彼女のみが無期懲役、他の人達には比較的軽い刑が下る。
そのとき、青年は、以前の彼女の不可解な行動の数々を思い出す。
そして、彼女にはある秘密があることに気付く。
彼女は文盲(文字の読み書きができない)で、そして、それを激しく恥じていた。
彼女が突然怒り出すのは、恥が刺激されたときで、そして、文盲が人にバレそうになった時、姿を消した。
裁判で書類を書いたのが彼女だと他の5人に仕向けられ、筆跡鑑定を求められたとき、文盲であることが分かれば彼女の罪はとても軽くなるのに、彼女はそれを知られたくなくて、自分が書いたとウソをつき、罪を一身に背負うことになった。
青年は、彼女に全てを打ち明けて罪を軽くしてもらうように勧めようと、刑務所まで足を運ぶが、そこまでしてばれたくないという彼女の気持ちを思うと、自分がそれに気付いてしまったことを伝えられず、彼女に会わずに刑務所を後にする。
という話です。
この後、さらに壮年期にさしかかった男性と、刑務所の中の女性の物語が後段に続きますが、今回に必要なのはここまで。
(続きが気になる人は映画を見て下さい。他にもいろいろと感じる所のある、とても良い映画ですが、R指定なので子供と一緒に見ないように)

恥のパワー
この映画を見て、恥って、他人にとっては大したことなくても、本人にとってはものすごく大きいことがあるのだと思いました。
他人に知られるくらいなら、それまでの人生を投げ打ち、蒸発した方がいいと思うほど、人に知られたくないもの。
そして、人によって恥は、無期懲役よりも重いわけです。
『恥ずかしくて死にそう』みたいな、命と比較されるような言葉もありますし、自分の恥ずかしい所を見た人の死を願ってしまうような気持ちを人は持っていて、恥には命や人生と同等程度のパワーがあるんじゃなかろうかと、その映画を見て思ったわけです。
つまり、恥は一時の感情なのに、人生を台無しにしうるものなわけです。
身近に見る逆上

さて、その映画を見た後、テレビでマスクの行列に横入りしようとした年配男性が他の人に注意され、逆上して大喧嘩になっているシーンを見ました。
年配男性は、自分でも後ろめたさがあったため、それを指摘されたことで、恥が刺激されたわけです。
また、運転中にクラクションを鳴らされ、暴走する車を見ました。
あれも、他人から見たらどうでも良いわけですが、本人は運転が下手だと思われたくなくて、逆上するわけです。
そして、私自身、見えたことを無邪気に相手に伝えてしまい、逆上されたことも数知れず・・・w
(いい加減に学習して、望まない相手には見えても伝えなくなりましたが、望んでいる相手であっても、時に逆上されます)
それらのものが、それまでは『怒ってる』と見えていたわけですが、映画を見た後は、『多分、恥ずかしいんだ』としか見えなくなりました。
恥のパワーもすごいですが、響く映画のパワーも、なかなかすごいですよね。