北方の重要性
手を離せば物体が下に落ちるように、運命も何もしなければ下に落ちます。子どもの頃は、何もしなくても親や先生など、目上(算命学では『北方』といいます)の人物が、その人を引き上げてくれるので、それなりのところにいられますが、一人で生きていくようになれば、北方の効力がなくなります。
そこで、今いる場所を自力で維持しようと思えば、北方に教えられたことを実行するなど、ある程度の努力が必要になります。北方の言うことを実行しているだけだと維持することが精一杯で、運命を上げようと思えば、さらなる努力が必要であることは、自然の法則(重力)を見れば分かることです。
しかし、親や先生を馬鹿にしていれば、言われたことを真剣に実行しなくなるので、下に落ちていきます。子供時代に、親との信頼関係が築けていて、北方に言われたことに素直に順う土壌があれば、少なくとも落ちることはありません。これを、『育ちが良い』というのだと思います。
(少し前に、佐藤が「育ちの良さ」とはという記事を書いていましたが、それはこういうことです)
忘れられない思い出
私が子どもの頃に見た、忘れられないシーンがあります。近所で火事があり、それを知った父親がすぐさま、バケツを抱えて飛び出し、100mほどの距離を猛スピードで水を汲んで何度も何度も往復していた光景です。バケツに水を汲んで出て行ったかと思うと、あっという間に戻って来るので、凄い勢いで走っていることが分かったわけですが、人の為に全力を傾けるその姿を見て、子どもの私は父親を心から格好いいと思ったのです。
普段、遊んでばかりであまり家にも帰ってこなくて、嫌いなところもたくさんあった父親だけど、その一つの経験が、どこかで信頼に繋がっていたと思います。そして、私が自分のためだけではなく、人の為に一生懸命生きることができるのも、父親のその姿を見たからだと思います。
そして最近、ある人と話していて、「私は実家との縁が深い。」という言葉が出てきました。そして、やはり、子どもの頃に、人の為に全力を尽くす父親の格好いい姿を見て、親に信頼感がわいたと言っていたのでした。
おそらく、北方に位置する人間が下を育てられるかどうかは、下の者に一つでも尊敬できる(格好いい)姿を見せられるかどうかにかかっているのではないかと思います。その信頼感だけが、集団が窮地に陥ったときに、バラバラになるのを避けられるのだと思うのです。
今は、『老害』などといって、北方を煙たがる傾向がありますが、人の転落を防いでくれるのは、実は北方だったりするのです。(とはいえ、自分勝手な北方も増えたように思いますが。)
映画『すずめの戸締まり』のメッセージ
さて、先日金曜ロードショーでやっていた、『すずめの戸締まり』という映画を見て受け取った強烈なメッセージが、『私たちの便利で安全な生活は、何らかの犠牲によって保たれている』というものでした。犠牲というと不快に感じる人もいるかも知れないので、言葉を変えれば、尽力という感じでしょうか。
分かりやすく例えれば、インフラを整えることなどは、危険な作業をしてくれる人がいなければ為し得ないわけで、そんな簡単なことすらも、普段は意識しないまま、私たちは生活しています。
名前のない家事や仕事が重要なように、私たちの生活が安全にかつ快適に保たれているのは、見えないところで何かをしてくれる人がいてくれるおかげです。それは遠い昔に作られたシステムだったり、知らないところで犠牲になってくれている人だったりもして、直接誰かにお礼を言うような代物ではありませんが、それを感じ取ることができるようになれば、私たちの心には、誰に対するものでもない、感謝の気持ちが生まれることになります。
その漠然とした感謝の気持ちがあれば、それはお互いさまとなるので、自分も、顔も知らない誰か、つまり、全体のために、身体を使って働くことができるようになるわけで、こういうつながりが、世の中にとって重要なものなのだろうなと思うのです。
実は、空組の記事なのですが・・・
これは算命学講座『空組』の原稿を書いていて出てきた内容ですが、ちょうど「すずめの戸締まり」を見たばかりでタイムリーなので、記事として上げることにしました。
生徒さんが読んでいたら、69コマ目の講義で同じ内容を聞くことになります。すみません。。。