以前書いた、『知的な人助けは恨まれる』という記事に関連した話ですが。
困っている人が好むのは、困っていることを肩代わりして願望を叶えてくれる人や、大変な目に遭っている自分に同情してくれる人や、愚痴を聞いてくれる人、一緒に泣いてくれる人で、ハッキリ言ってそんなものはなんの解決にもならないし、その人の成長を阻害し、その場に留める害悪でしかないと私は思っています。
まぁ、そういうものを好むから、その人はその場に留まり、同じことをくり返すわけです。
しかし、そこでぐるぐるしているのがイヤだったら、どこかで意を決して、『ちゃんとしたアドバイス』をしてくれる人の話を聞かなければなりませんし、話を聞くだけでなく、実行しなければ、何も変わりません。
しかし、その、知的な人助けをしようとしてくれる人の話は、したくないことを指示されることになる(したいことだけやってきたから、その人の現状がある)ので、なぜそれが必要なのか理解できず、ただの嫌がらせのように感じ、その人を嫌ったり遠ざけようとするのです。
動物のことを考えるとよく分かると思います。
動物は病気になっても、自分から病院には行きません。
そこで、飼い主が病院に連れて行って治療を受けさせようとすると、治してくれる先生のことを怖がったり、刃向かったり、嫌ったりしますよね。
動物が好きだからこそ動物病院の先生になったわけで、その好きな相手から嫌われるという悲しい宿命を背負ってくれるほど、愛情深い人であるにも関わらず、です。
でも、その時、動物が信頼している飼い主が側にいて、「先生に任せて大丈夫だから、がんばって治療を受けようね」と言い含めると、おとなしく治療を受けるようになったりします。
つまり、人が変化しなければならない時には、知的な人助けをしようとしてくれる人以外に、その人が信頼している人のフォローが支えになる、ということです。
信頼関係のある身近な人が困っていて、知的なアドバイスになかなか従えずにいるときには、「がんばろうよ」とその人を励ましたり、アドバイスを聞きやすいよう誘導したり、時には叱ったりできるのが、家族や友人の役目なのではないかなと思います。