人を嫌うということ

人は誰かのことを嫌いになると、不快感を感じます。
なので、不快なのはその原因になった相手のせいだと思ってしまい、『悪いあいつ』を非難したいという気持ちが起きてきます。

でも、実は不快感を感じるのは相手のせいではなくて、自分が『人を嫌うから』なんです。

よーく観察してみてください。
相手が自分に対して何もしなくても、人のことを嫌いになることはあり、そういう場合でも不快です。

その人が存在していること自体が不快なのでしょうか?

そらまめ

そうではありません。

人は自分の発したものを受け取るので、『嫌い』という自分が発した感情により、不快感を受け取っているだけなのです。
(もしも誰かから嫌われたときに、こちらがその人のことを嫌わなければ、別に不快感など感じませんので、試してみてください。)

嫌いの度合いにより、不快感も強まりますから、嫌いという感情を『恨み』にまで育ててしまうと、まるで地獄の中にいるような気分になります。自分が。

不快を感じるのは、その感情を持っている人だけなので、いくら相手を恨んだところで、その人がこちらのことを嫌いにならなければ、その人には全くダメージがないのです。

この仕組みを知っていると、人を嫌いになるのって、なんだか独り相撲でバカみたいじゃないですか?

これから、この『人を嫌うということ』をテーマに、記事を書いてみようと思いますので、お付き合いください。

人のことを嫌いになってしまったとき

私は人のことは嫌いにならないに越したことはないと思っていますが、それは道徳的な意味からではなく、昨日書いたように不快感の中で毎日生活することになると、自分が辛いからです。

ラクを目指している私にとっては、不快感の中でじっと生活していくなど、考えられません。

そんなことに耐えながら暮らしていくくらいなら、どうすれば人を嫌いにならないですむか、その方法を見つける方にエネルギーを費やしたいと思うわけです。

一般的には『人を嫌いになってはいけない』という道徳的な認識のみがまかり通っていて、みんななぜ嫌いになってはいけないのか、その理由(上で書いたこと)を知りません。

なので、人を嫌いになってしまったとき、『人を嫌いになってはいけない』という判断のみを働かせてしまい、人を嫌いになった自分を責め、恥と感じ、人を嫌いになってしまったことを他人に気付かれないよう、感情を押さえ込もうとします。

押さえ込まれた感情は、無意識の部分に沈められ、だからといってなくなるわけではなく、他のものに変質しながらいつまでも不快感を伴ってくすぶり続けるのです。
これだといつまでも苦しいです。

そらまめ

人を嫌いになって苦しいときは、このことを思い出してください。
そして、人を嫌いになったところで別にいいのだと思って、思いっきり『嫌い』という感情を出し尽くしましょう。

人のいないところで、思いっきりその人に言ってやりたいことを言ったり、『嫌い!嫌い!』と強く思って感情を出し切ってください。

嫌いという感情は、相手の問題ではなく自分の問題なので、このときは新たな問題を生まないために、相手にぶつけたり誰かに話したりせず、1人で処理してください。

感情は出し尽くせば、落ち着いてきます。
感情に揺さぶられなくなってから、原因と解決策を考えてみてください。

それでは、どうして人を嫌いになるのか、そのメカニズムをお話してみようと思います。

どうして人を嫌いになるのか

人を嫌いになる理由のひとつに、近づきすぎてしまったというのがあります。

どうして適正な距離を保てなくなるかというと、日本人には
『人を嫌ってはいけない』『出会った人とは仲良くしなければならない』などの観念と、
『人から嫌われたら大変なことになる』という思い込みを持った人が多いからです。

人はそれぞれ違う性質を持っていて、視点も経験も感じ方も言葉の理解度も様々です。

合う人もいれば合わない人もいて当たり前で、合わないのであればただ離れていればいいだけなのに、そこで『人とは仲良くしなければならない』という観念があると、ただ離れているということを許せず、理解し合おうとします。

理解し合おうとすれば、近づいたり情報開示をして、お互いの意思統一を図ろうとします。

そのときに、ただ意見の違いがあることを認め合えば問題は起きないのですが、意思統一のために折れて相手に意見を合わせた方にはなんとなく、不満感が残ります。

自分が正しいと思っている場合も、相手が自分に合わせなければ、不満です。

また、秘密は自分の中にのみ留めている限り他に漏れることはありませんが、仲良くなるために秘密の開示をした場合、他にバレるのではないかという不安感を同時に抱えることになります。

そらまめ

こうして自ら無意識に蓄積した不満や不安からもたらされる小さな不快感が、やがて『嫌い』という感情に変化していきます。

そこで、『人を嫌ってはいけない』という観念をもっていることで、人を嫌ってしまった自分を無意識に責め、そのことでさらに不快感を募らせ、『嫌い』を育てていくのです。

つまり、人を嫌いになるのは、人との適切な境界線をきっちり引けない自分のせいでしかないのですが、不快感を相手のせいだと思っているので、相手の一挙手一投足がさらに不快を呼び、苦しくてたまらなくなってきて、仕返しに相手にダメージを与えたくなり、さらにぐるぐるしていきます。

あぁ、独り相撲。

そらまめ

人を嫌いになる理由の、もう一つのよくあるパターンです。

上でお話ししたのは、近づき過ぎることによって起きるパターンですが、もうひとつは直接関わったことのない人にも起こります。

『○○してはいけない』と自分に禁止していることを、人がやっていると、その人に対して腹が立つのです。

具体例で説明すると、順番待ちしているときに横入りしようとしている人がいると、イラッとすることがあります。

それは、『ズルをしてはいけない』『ルールは守らなければいけない』という観念があり、ズルの禁止やルール厳守の枷を自分に対してかけているからです。

でも、ズルをしてはいけないと思っていない人は、横入りしようとしている人を見ても別に腹を立てたりはしません。

ただ、「あの人、なにか急いでいるんだろうか」「せっかちなのね」などと思って、流すことができます。

その人に注意する必要がある場合も、「列の最後に並んでください」と、感情を交えず淡々と伝えることができるでしょう。

そらまめ

『○○してはいけない』という観念をたくさん持っている人は、観念があまりなく自由に振る舞う人を見ると頻繁に腹が立つので、嫌いになることも多いでしょう。

親から「ちゃんと勉強しないと立派な大人になれませんよ。」と言われて育ち、自分でも勉強しなければとがんばってきた人は、テレビで活躍するバカなタレントが嫌いだったりするのではないかと思います。

直接何かをされたわけでもない人までをも嫌いになることが多い人は、自分には観念が多いのではないかなと意識してみてください。

他にも、負担、嫉妬、逃避、Noが言えずに不利益を被る、理不尽、見たくない自分を見せられる、などの理由で人を嫌いになりますが、いずれにしても原因は全て自分にあるのです。

人から嫌われたら

今までお話してきたように、人のことを嫌いになるのは嫌いになる人の問題なので、嫌われないようにしようと思ったところで、あまり意味がありません。

ビクビクと嫌われることを恐れていると、誰にとっても当たり障りのない小さな人生を送ることになり、その損害の方が人に嫌われることより遙かに大きいと、私は思っています。

また、嫌うということを武器にしている人もいます。
「私に嫌われてもいいの?」と匂わせて、相手を自分の都合のいいように変えようとするのです。
これは国家間でも起こります。

でも、こういったことを知っていると、そんな脅しに引っかかって、言いなりになる人は少なくなるのではと思います。

そらまめ

さて、『人から嫌われたら大変なことになる』と思い込んでいる人がいますが、本当にそうでしょうか?

世の中にはたくさんの人がいます。
1人の人から嫌われたところで、大したことになりはしません。

子供の頃は世界が狭いので、嫌われることでいじめなどにつながっていくのかも知れませんが、大人の世界は勝手が違います。
いつまでも子供の頃のイメージに縛られる必要はありません。

根も葉もない悪い噂を流されるのではないかと思うかも知れませんが、勇気を持って『堂々としていれば』、そういうことをする人は時間をかけて周りにも知られ、不自然なことをしているのであれば勝手に発覚していくでしょう。

なにより自分にだけは嘘はつけませんから、悪い噂を流している自分に不信感が湧いて自信を損なうことになり、そこに発覚する不安と嫌っている苦しさが重なり、その人は自動的に罰を受けるのです。

自分の正しさを立証しよう、状況を変えるためその人に対抗しようと相手をすると、その人と同じ場所に留まることになり、いつまでも関わっていくことになります。

相手をせずにとっとと次のステージに進んでしまえば、新たにそこにいる人達との関係が始まります。

人から嫌われてしまったら、なんとか解決しようなどとせず、そのこと自体を自分が次に進むための踏み台にしてしまえばいいのです。

そらまめ

十数年前のこと、私は「憧れてます!」と言ってすごい勢いで近づいて来ようとする人に、不快感を感じたことがありました。

その人から離れたくて知人に話したところ、「人を嫌っちゃいけないよ」と言って仲を取り持とうとされ、そのどうにも不快な人を境界線 を越えてなんとか受け入れようとして、嫌いを育てて苦しんだことがありました。

その仲を取り持とうとした人ごと断ち切ることでようやくラクになれ、その体験から人を嫌いになると自分が苦しいのだと知りました。
こんな思いをするのは、二度とごめんだと思いました。

そらまめ

しばらく後、友人2人を会わせたところ、初対面で水と油のように反発し合っていました。
それぞれ魅力的な人たちですが、2人が同席するとそれぞれのいいところが死んでしまい、2人ともが嫌な人に見えました。

その様子を客観的に眺めながら、こんな天敵みたいな相性の人っているんだなぁと知り、二度とこの2人が同席することのないように気をつけています。

2人とも、ただ相性が悪いだけなので、ただ離れておけば問題など起きません。
でも、もしもあの2人が一緒にいようとすると、2人とも不快だし、きっと周りも巻き込み面倒なことになるのだろうと思います。

そらまめ

それらの体験から、私は話を聞きに来てくださる方に、嫌いな人と仲良くしろなどとは、余程のことがない限り言いません。
まずは観察の対象とし、それでも不快なら、どうすれば離れていられるかを考えようとします。

私の人生の中で最も不快だったのは、この『人を嫌いになったとき』、2番目は『隠し事が発覚しないかとビクビクしているとき』でした。
この2つは努力で避けられ、これらがないだけで、生きることはかなり快適になるんじゃないかと思っています。

苦しくてもその場に留まっていたいと思う人は、自分でそれを選んで留まればいい。
それはその人が選ぶことなので、私にはどうでもいいことです。(境界線

人がどうあれ、私は真っ直ぐ前を向いて、日々気持ち良く生きていきたいのです。
 

2014年3月19日