私は常々言葉が通じる人を増やしたいと思っていて、こうして記事を書いたりしていますが、「『言葉が通じる』ってどういうこと?」というのを、改めて言語化してみようと思います。
『感情』という名のフィルター
人は何かを見聞きしたときに、まず最初にその人の持つ価値観に沿って感情を動かし、その情報を振り分けします。
嘘をよくつく人は、まず疑います。
傷つきやすい人は、傷つけられるんじゃないかと怯えます。
正義感の強い人は、責めたくなります。
いい人であろうとしている人は、責められているように感じます。
悪口が好きな人は、人が誰か他の人の話をしていると悪口を言っているように感じ、
人の不幸が好きな人は、笑い話として苦労話をしても、かわいそうと思うのです。
そのように入口で振り分けられたことで、情報が歪められてインプットされるため、アウトプットも歪んだものになっていきます。
ところが、同じように変換してインプットする人同士の間では、会話が成立していく(=言葉が通じる)のです。
疑問形で叱られると
具体例で説明すると、親から「どうしてこんなこともできないの?」と疑問形で叱られて育った人は、誰かから質問をされると責められているような気分になり、咄嗟に自分を守ろうと反抗心が湧きます。
そういう人は、自分からもあまり人に質問しませんので、同じような人同士は一緒にいても責められているように感じず、安心感を持ちます。
一方、疑問形で叱られてきていない人や、自分が質問されるとそういう風に認識しがちであることに気付いて修正した人は、他人からの質問を『ただの質問』としてそのまま受け止めて答えます。
自分がなんとも思わないので、人にも無邪気に質問します。
そこで、質問を嫌う人から『デリカシーがない』と、嫌われたりするのです。
事実は事実のままに
観念の掃除をして価値観をなくしてしまうと、この感情による変換がなくなります。
つまり、物事をあるがままに見て、あるがままに聞き、情報をありのままインプットすることができるようになります。
一方で、価値観のある人とは言葉が通じなくなります。
何かを言うと、感情というフィルターを通して受け取られるので、言いたいことがそのまま伝わりません。
私は、みんながひとつの価値観になることはムリなので、全員が価値観をなくすことで、ようやく共通の言語で話せるようになるだろうと思っているのです。
2014年03月13日