自分褒め

今回は、『自信があるってどういうこと?』を読んだ後のさとうの記事について、更に解説する形で、自分褒めについての話を進めていきます。

 

「必要なことは、ちゃんと届く」 文:さとう 

昨日の『自信』についてのそらちゃんの記事は、ここ数ヶ月にわたり、私自身がずっと考えてきたことでした。

 
すると面白いもので、最近ご来店頂くお客様に、「自分を褒めてあげてください。」と伝えていることが多いことに気がつきました。

先日もお客様に『自分褒め』を伝えたところ、「自分を褒めるのって、とても苦手なんです。」と、おっしゃっていて、自分を認めることが大変な様子でした。
  

そこで、自分でも褒める努力をすることと同時に、誰かにも褒めてもらえたらもっと嬉しいかなと思い、

近しい人にも協力してもらうことを提案すると、「とても理解があるので、きっと協力してくれると思います」とおっしゃっていました。
 

このような経緯もあり、昨日の記事をそのお客様が読んでくれているといいなと思っていたところ、ご来店くださり、ブログの記事を読んで、とても喜んでくださっていたのです。
 

このときも必要なことは、ちゃんと届くんだなぁと、心底思いました。
 

『自分褒め』、私も出来ていないので、木に登るのではなく(久しぶりの響き 笑)、何かできてもできなくても、「よし、りえちんよくやった」と、褒めてあげようと思います。
 

昨日のコメント覧で、「何かを積み重ねて行けば自信がつくと思っていた」とありますが、私もそうでした。


でも、よくよく考えると、何もやり遂げていなくても自信のある人はたくさんいます。
何かに対して、「出来ない」ではなく、「やってみよう」とすることから自信が付いていくのかな、と思うようになったのです。

「やってみらた出来た。よし、私頑張った。」

この積み重ねが大事なんですね…。
 

昨日の記事は、本当に大切な事を教えてくれました。
必要な人には、ちゃんと届くようになっているんですねぇ。(大事なことなので2度繰り返しました。笑)

2014年12月20日(さとう)

 

さとうの記事について解説します

そらまめイラスト

さとうの記事の後半部分に、

『何かできてもできなくても、「よし、りえちんよくやった」と、褒めてあげようと思います。』

という部分がありますが、これは公開前の編集の時に、「こりゃいかん!」と私が修正をしたものです。
 

最初のさとうの原文には、

『何か出来たときには、「よし、りえちんよくやった」と、褒めてあげようと思います。』

と書いてありました。(違い、分かるでしょうか?)

一昨日の記事でしっかり説明したつもりだったのですが、さとうにも理解できなかったのかと分かり、大事なところなので改めて説明しておこうと思います。
(一般的な感覚を持ったさとうは、こういうときに私に人の受け止め方を気づかせてくれる、ありがたい存在なのです)
 

自分ぜんぶ、受け止めて

さて、『自分褒め』は、どんなときでも自分を褒めるというものです。
どんな自分をも褒めようとするので、受け入れたくないダメな自分や、許せない自分からも目を逸らさず、丸ごと受け止めることになります。
 

『何かできたときには褒める』というのでは、何が『いかん』のでしょうか。
 

それは、何かを上手く成し遂げた自分だけを認めるということになり、結局のところ自分の好きな面や受け入れたい自分しか受け入れないということになるからです。
 

子供の頃のことを考えてみてください。
多くの子供は、いい子にできたときや、良い成績を取ったときに、親や先生から褒められたのではないかと思います。

  褒められる内容 = 親や社会にとって都合のいいこと

です。

人は本質的に『認められたい』という欲求を持っていますから、ほとんどの方は、その欲求故に誰かの都合で褒められることで行動をコントロールされ、いい子を経由し、誰かにとって都合のいい大人を目指して行くことになるのだと思います。
そして、その通りにできない自分を、自分で責めながら生きているという場合がほとんどです。
 

でも、『認める』って、本当はそんなものじゃない。
 

都合のいい部分だけを受け入れるなんて、ただのコントロールです。

何かをしようがすまいが、できようができまいが、良かろうが悪かろうが、
まずは存在自体を丸ごと受け止められることが必要なのです。
 

私たちの持つ『認められたい』という欲求は、存在自体を認められたいのです。

そんな欲求、自分でしか満たせません。
 

それをやるのが、『自分褒め』です。 
 

『認められたい』という欲求が完璧に満たされれば、私たちは自分を尊重するようになり、そんな大切な自分のことを、粗末には扱わなくなります。
 


冒頭で説明したように、さとうは私の意図を深くまでは理解できずに文章を書きました。
そのことだって、私の書いた文章では人にしっかり伝わらないことを教えてくれることになり、ありがたかった。
 

こんな風に、うまくできようができなかろうが、意図せずして自然に私たちは何かの役に立ってしまうものなのです。

 

大丈夫。
 

2014年12月21日

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