陶芸家だった頃のことです。
ある日、デパートに出展していました。
そこに来た愛犬家の女性が、器に描いてあった犬の絵を気に入って、購入してくださいました。
翌日、その女性が再訪されました。
女性 「昨日いただいたお皿を、早速夕飯の時に使ってみたの。そしたら、いつもの料理が数段美味しそうに見えて、ビックリしたの。器によって、お料理ってあんなに美味しそうに見えるのね。」
そう言って、たくさん買って帰られたのでした。
私はもちろん嬉しかったのですが、いつもの癖でどこに対して嬉しいと感じているのかを、ただ見ました。
すると、器をたくさん買ってもらったことでも、作品を気に入ってもらったことでもなく、
『その人が新しい概念を持ったからだ』と分かりました。
その女性は、それまで『器によってお料理が美味しそうに見える』ということを知らなかったのです。
それが、『犬』という、やきものとは違う理由をきっかけにして、気づいたのです。
これから、この人は和食器を見る目が変わるだろう。
犬の絵が付いていなくても、私の作品ではなくても、焼き物に触れる機会が増えるだろう。
そう思って、喜びを感じたのでした。
自分の中に新しい概念が芽生えることは、それによって世界が広がっていくのでもちろん嬉しいことだけど、人の中に概念を芽生えさせるきっかけに自分がなることも、同じくらい嬉しいことなんだなぁと、思いました。
なので、若者に勉強の楽しさを教えることも、ひとつの方向性を指し示すことも、きっと本人たちにとっても嬉しいことだっただろうと思うのです。
人の指導を受けるというのは、指導をする方にとっても喜びなので、実力のある人には遠慮せずにどんどん指導してもらって、『それを自分の人生にきちんと生かしていく』ことも、ひとつの愛の形です。
そういう意味で、指導する方もされる方も対等だと、私は思うのです。
(あくまで、指導される側が自覚を持って真剣なときです)
2015年04月28日