責任のない第三者は綺麗事を言わない

時に人から、家族間に起きた問題の相談を受けることがあると思います。


気持ちの整理のために話を聞いて欲しいという程度であれば、ただ聞いておけば良いのですが、

中には『自分を取るか、家族を取るか』という深刻なものもあります。
  

こういう場合は、本人は自分で選ぶことができず、本気で悩んでいます。

占い師であれば、こういうときより良い選択肢を指し示すことができたりしますが、ほとんどの方が占いなんてできません。

本気で悩んでいる人に向かって、どういう返事をしたら良いのでしょう?
 

イメージの違いに過ぎない

実は、選ぶ事ができなくなったときは、どっちを選んでもいいんです。

Aの道にはAの経験が、Bの道にはBの経験があるというだけのことで、

Aを先に経験した人は後でBの道を経験することになり、Bを先に経験した人は後でAの道を経験することになります。


それだけのことなのだけど、世間には『イメージ』というものがあります。

自分を取るか、家族を取るか、という選択を迫られたとき、通常では前者には罪悪感が、後者には『人の為に自分を犠牲にした立派な人』というイメージがつきまといます。

本当にそれが立派なのかどうかは別として。
 

そのイメージ故に、前者はより選びにくくなり、中には後者しか選択肢がないと思っている人もいます。
 

まめ3

そのとき、相談を受けた人が、

「私だったら自分を犠牲にして家族のために生きる」
というようなきれい事を言ったら、相談者はより『自分の為に生きる』という道を選びにくくなり、追い詰められた気持ちになります。

その状態で家族の為に生きることを選択したら、人のために生きることとなってしまい、本当に自分を犠牲にする人生になってしまいます。


でも、そこで周りの人が

「私なら自分がまず幸せに生きることを選択する」
と提案することによって、イメージによる制約が緩和され、バランスがよくなります。


どちらでも選べる状態のとき、その人が「家族のために生きよう」と自分の意思で選んだのであれば、それは家族の為ではなく自分のやりたいこととなるため、それは結局『自分の為に生きる』人生となるのです。
 

選択は同じでも、内容は大きく違うの、解るでしょうか?
 

2015年06月07日

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