駕籠に乗る人担ぐ人


最近、隊長が気に入って、よく口にする言葉がある。

『箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、捨てた草鞋を拾う人』

と言うものだが、世の中には、様々な運命を所有する人がいて、相互に関わり合って、この世界は成り立っているという意味である。


自分が駕籠に乗る人だからと言って、自分が駕籠に乗れるのは、駕籠を担いでくれている人がいるからだし、草鞋を作ってくれる人のおかげで草鞋が履ける。

そして、駕籠に乗る人が、捨てた草鞋を拾う人より、世界を構成する一ピースである人間として、上にいる訳でも何でもない。

そこにあるのは、身分の違いだけだ。


自分が幸運だからといって、陰でその幸運を支えてくれている人もいれば、犠牲になってくれている人もいる。

それら様々な人々が集まって構成しているのが、この世の中であり、そのことに気付かず、幸運に甘んじて、それらの人を蔑ろにしたり、排斥してしまっては、転落の道を辿ることになる。

(というような内容が、先日のさる命学教室の授業で扱われた)


さて、私は、私たち人間を始め、この世の中に存在する全てのものは、地球の細胞のようなものだと思っている。

私たちの身体を構成する細胞は、自分がこうしよう、こうあろうなどとは思っていない。

その場でただ好き勝手に存在しているだけだが、皮膚の細胞は皮膚の役目を果たし、腎臓の細胞は腎臓の役目を果たし、脳の細胞は脳の役目を果たす。


例えば、包丁で爪の先を切ってしまったとすると、指先の皮膚は自然に硬化して、失った爪を補ってくれたりするが、その時も細胞は、「爪を補おう」なんて、きっと思っていない。

でも、自然に補ってしまう。


私たちは、本来そういう風にできていると思う。


認められようとか、好かれようとか、人より上にいたいとか、余計な思いを持たずに自分の生きる場所で出来ることをやっていれば、全体が調和すると思うのだ。


私はいつか、そういう世界が見てみたいんだよね。



2017年04月24日

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