こう見られたい自分

「作品」を通して見える 作者の内面

以前、焼き物の作家をしていた時、作品を見ると、その人の内面が分かってしまうことに気付きました。

例えば、この作品を作っていたときには純粋に作品に向き合っていたけど、この作品を作ったときにはお金儲けを考えていたのだろうな、この作品の時には情緒不安定だったんだろうな、というのが、作品を通して見えるのです。

普通、考えていることが他の人に見えることはありませんが、何かを作っている限り感じ取れる人には感じ取られてしまうのです。

 
 

私が作品を見て、その作家さんの内面に気付いてしまうように、私の内面にも気付く人がいるに違いない。

まめ2

そう思った瞬間、「内面を知られるのは恥ずかしい」という気持ちが湧いたのですが、すぐに、「作品を見て内面が見える人は、他人がどんなに汚い思いを持っていようが、受け入れるはず」と気づき、「私が作品を見て欲しいのは、それが見える人」と思い、「全部見せて大丈夫」と安心したのでした。

 

あの時、そのことに気付いた過去の私を褒めたいです。

あれがあったおかげで、私は人からどう思われるかどうでも良くなったし、承認欲求も消えたのでした。

 

他人に「〇〇な人と思われたい」という不自然

人には、「他人にこう見られたい自分」というのがあって、そう見えるべくそのフリをして生きています。

そのうち、自分はそういう人間なんだと自分でも思う様になる訳ですが、そもそも「こう見られたい」と思う時点で、そうではないわけです。

例えば、私たちは自分が人間であることを知っていますから、「人間と思われたい」などとは考えもしません。

同じように、根っから明るい人は、「明るい人と思われたい」なんて思わないし、優しい人は「優しく見られよう」などとは思わないのです。

まめ3

 

しかし、そうではないのにそのフリをし続けるわけですから、エネルギーを使いますし、不自然なものとなります。

そして、一度そう見てくれた人には、そのイメージを崩さないよう取り繕い続けますが、関係が長く深くなると取り繕い切れなくなります。

 
 

また、せっかくその顔を見せているのに、そう思わない(本当の自分を見抜く)人がいたりすると、その相手を嫌いになったりします。

でも、「こう思われたい自分」は無理のある自分なので、見抜いてくれる人は、自分で気付けないギャップに気付かせてくれる、ある意味ありがたい人です。

 
 

また、人を見るときは、その人の「こう思われたい自分」を見てその人だと判断していると、ギャップからズレが生じてきます。

「あれれ?なんか、違うんじゃね?」みたいな感じで、混乱します。

言葉やしぐさは嘘をつきますが、自分でもそれが嘘だと思っていません。

その人の思いは言葉ではなく行動に表れるので、人を見るときは行動を見ると、ほぼ間違えません。

 
 

2018年11月01日

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