『義』について

責めやすい方に流れる

去年、大学医学部の入試に不正があったことが話題になった。
女子学生の入学を少なくするために、女子の得点を一律減点したというものだ。

 

あのニュースは浅く見ると、ただ大学側が悪という感想になると思うが、問題はもっと根が深い。

女子学生を増やしたところで、学業は優秀かも知れないけど、いざ医者になったら結婚して辞めてしまったり、妊娠出産で休む事が多い。

学校としては、そうなる確率の高い人より、安定して働いてくれる人の方を社会に排出したい(自分のところで使いたい)と思うのが当たり前で、その結果に過ぎない。

 

今までの女性がやってきたことの結果なので、受験しようとする女子学生が怒る相手は、本来学校ではなく、過去の女子学生が筋となる。
しかし、それを怒るなら、自分も仕事を辞めない覚悟が必要になるので、とりあえず表面的に悪者にできる学校側のせいにしておくのだと思う。

 

こういったことは、世の中には数多ある。
今、問題として目に見えていることは、過去に私たちがやってきたことを原因として、起きてきた結果に過ぎず、誰かの悪意や落ち度とは限らない。

 
しかし、本質に目を向けることなく、責めやすい何かのせいにしておくというようなことは、よくある。

 

戦いたくない人に足を引っ張られる

本質を洗い出すことなく、戦いを避け、物事をうやむやにしておきたい人がたくさん存在するおかげで、理不尽だけど強く発言できる利己的な人が力を得て、どんどん強くなったり、多くの人々が物事をうやむやにし続けることで成立する、悪徳な業者や習慣や決まりがたくさん存在する。

 
結局の所、自分の首は自分で絞めているに過ぎない訳だが、それに対して声を上げるのは、とても勇気が要ることだ。
なぜなら、悪徳業者やシステムなどだけではなく、事実から目を背けておきたい世間や身近な人も敵に回すことになるからだ。

戦おうとすると、戦いを見たくなく物事をうやむやにしておきたい臆病な人達から止められ、非難される。
『金が欲しいだけだろう?』とか『面倒な自己主張しやがって』とか『寝た子を起こすな』『巻き込まれたらたまらない』という感じだ。

 

戦いを恐れず 問題の本質に目を向ける

こういう、小さな自分の都合だけに留まらない、全体のためにもなんとかしなければと立ち上がろうとする気持ちを、『義』という。

算命学で言うと、義は西方、金性にあり、義徳は人に与えられている本能から出てくるものであり、『正しいこと(自然の法則に則ったこと)を貫く力』とされる。

 

さて、若者にありがちな未熟な正義感などではなく、ちゃんとした大きな『義』を抱く人は、全体のことを考えて行動するが、小さな自分の為に生きている人には、大きな思いで生きている人の考え方は到底理解できない。

でも、大義を抱く人の戦いは、回り回って自分たちの生活にも良い影響を及ぼすのだから、理解や応援ができないまでも、せめて非難したり邪魔するのをやめられたら、世の中が随分違うんじゃないかと思う。

 
 

そのために一人一人に何ができるだろうかを考えると、『戦いを恐れない』ことに行き着く。
そして、戦いを恐れないためには何が出来るかと考えると、結局は、『人からよく思われようとしない』に行き着くのよねぇ。

 
 

ちょっときな臭い話かもだし、目を背けたくなるかもしれないけど、多分これ、動乱を迎えるこれからの世の中にとって、とても大事なポイントになることだと思うので、この記事を読んで自分の中のどこかが反応する人は、しっかり読み込んで、覚えておいて下さいね。

 
 

2019年01月12日

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