屋久島の森が教えてくれたこと

終わって はじまる

友人と話をしていて、以前、40代の前半頃に屋久島に行ったときのことを思い出しました。

屋久島では、当然のように屋久杉を見に行くツアーをするわけですが、私もご多分に漏れず、森に入ったのでした。

 
ガイドさんに案内されつつ、森の中を進んで行くわけですが、その森の中で、
数百年単位の長い時間で見れば木は液体なのだなぁとか、木が生い茂りすぎて陽も当たらなくなった部分が火事などで破壊されて、そこにようやく陽が当たるようになって、そこに新しい芽が芽吹く機会が生まれるのだなぁなどと、教えてもらったのでした。

 
それで、物事は流動的に動いていること(いきなり何かが起きることはない)や、今馴染んでいる何かが破壊されてそれを失ったところで、そこに新しい何かが芽吹いて育っていくわけで、それが新陳代謝というもので当然の成り行きなのだと教えてもらったのでした。

 

それで、何かを失うことも大事なこと、自分的に新陳代謝の必要があってのことだと、スッキリと受け入れられるようになり、執着がなくなったのでした。

 

四十にして 大局を知る

それまでも、私は自然をよく観察していた方ですが、屋久島で得られたことは、個々の存在にまつわることではなく、悠久の時の流れの中の今を意識することや、大きくあらゆることが関わり合って、目の前の物事は起きていることなどで、それらはスケールの大きな視点を持たせてくれました。

そして屋久島でのツアーは、これからその視点を意識して生きることを、実感として自分の中に落とし込む作業となったのでした。

 

目の前に起きたことがイヤだからと、全体を見ずに短絡的にそれを取り除けば他に影響が出るわけですし、今の時代も過去の積み重ねで今に至っているわけです。
うまく行っている人がいたとしても、その人の積み重ねの上だからこそ、それが功を奏しているのであって、ただある部分だけを真似したり、その人になろうとしたり、パーツを取り入れたりしても、自分の積み重ねの上に、他の人のものを重ねることとなり、うまくハマるわけがありません。

自分は自分を積み重ねていく以外に、道はないのです。

 
 

当時、やたらと屋久島とトルコに行きたかったのですが、とりあえず屋久島に行ったら、トルコに行きたい気持ちはすっかりと無くなっていました。

多分、どちらに行っても同じことを学ぶことになり、一方でそれ(学び)が満たされれば、もう一方は必要なくなったのだと思います。

 

そして、40才を超えてから、そのスケールの視点を持つように教わったことも、私にとってベストだったと思うのです。

私の経験上、物事はベストなタイミングで起きて来ます。
たとえ恐怖を感じたとしても逃げたくなったとしても、怖がることなんて実は何もなく、安心してそれに乗って、そこから得られるものを経験値としてしっかり学んでおけば、大丈夫(運命は崩れない)なんですよね。

 
 

2019年10月28日

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